春の訪れ
毎春、桜の蕾がぽつぽつとほころび始めてから満開になるまでのあいだは、その周りに桜の時間が流れ、このときばかりは、もうどうしようもなく確かにときが進んでいるんだということを実感する。昨日までは一つ二つ咲いているくらいだったのが、今朝になって桜の木の横を通ると、驚くほどいくつもの花が咲いているのだから、仕方がない。この季節、「待ってほしい」と呼びかける間もなく、春も桜も足早に行ってしまうのだ。
桜は満開になってから散るというよりも、満開になるというときにはもう散り始めてもいる。まるで生きていくということが死んでいくことも内包しているように、咲いていることと散っていくことが重なり合っている。それゆえにいっそうざわざわさせるのかもしれないし、また同時に、散っていくことも含んでいるからこその花の美しさというのもあるのだと思う。
平安時代の歌人の紀友則に、「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」という有名な歌がある。これは、こんなにものどかな春の日になぜ桜は慌ただしく散っているのでしょう、と逆説的に桜の美しさを詠んだものだ。春のそわそわする感覚に、桜の光景が混じり合って寂しく落ち着かなかったのは一千年以上も昔から変わらなかったのかもしれない。
現代でも色々なミュージシャンが桜を歌うのだから、桜はよほど心のかたちと馴染むのだろう。平安の歌人たちも、遠い未来の人々が不思議なリズムとメロディで、なおも「桜の歌」に親しみ深く触れていると知ったら驚くのではないだろうか。一千年以上先の未来でも、桜の心象が残っているといい。
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ところで、春真っ盛りの折には、そんな風に花が咲き誇り、駆け足のように散っていくなかで、空だけでなく地面にも華やかに花びらは敷き詰められていく。そして、それらは眠気を誘うような風に運ばれ、さらさらと流れていく。サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』で、主人公の少年のホールデン・コールフィールドが、公園にいる家鴨たちは冬になって池が凍りついたらどこへ行ってしまうんだろうと言っていたが、僕も昔、この散った桜はみんなどこへ行くんだろうと疑問に思ったことがあった。公園などの土に還っていく花びらたちはいいとして、アスファルトを転がっていった彼らはどこへたどり着くのだろう。あるいは、川を流れていった桜はどこへ流れ着くのだろう。流れていった花びらたちが、やがては海にたどり着き、一箇所に集まって、どこかにピンク色の水平線ができているかもしれない──とそんなことは想像の話であり、実際はどこへ行くのか、僕には皆目見当もつかない。
ただ、その桜のうち、ほんの一部の行き先を、僕は知っている。
桜の季節になると、いつも僕の住んでいるマンションのほうにもあの花びらの支流が流れてくるのだ。桜が散り、風に流れ、気づくと部屋の玄関の扉の前に、小さなピンク色の水たまりのように花びらが溜まっている。部屋の外の廊下がちょうど風の通り道になっているのかもしれない。そして、僕が外に出ようと扉を開けると、開けた勢いで生じるかすかな風によって、ふわっと花びらたちが舞い上がり、玄関に入ってくる。
思わず、ようこそ、と言いたくなるような、ささやかな春の訪れが、そこにはあった。どうかゆっくりしていっておくれ、と僕は思う。