ESSAYSエッセイ

ときには魔法使いもいる世界

ゆびさきがふれあった日

ある日、河川敷を散歩していると、広場で遊んでいた二十人くらいの幼稚園児たちが川に架かる橋の上を渡っていく電車の窓に向かって手を振り、「バイバーイ、バイバーイ」と叫びながら追いかけていった。その声は、まるで自分たちと橋の上の電車との距離も、あいだを遮る窓もなく、「届いている」ということを一切疑っていないかのような真っ直ぐな声だった。

子供の頃は想像力も豊かで、その想像によって生まれる世界を今よりもずっと素直に信じられた。いつの間にかそのなかに入り込んで、入り込んでいるということすらも消えている。だから怖いものはいっそう怖くなるし、夢のようなメルヘンも日常にある。

たとえば幼少期に僕がもっとも恐れていたものに「ナンド」があった。

なにか悪さをするたびに、祖母から「納戸に入れるよ」と叱られた。「ナンド」という不可思議な響きと、滅多に開かれることのないその扉に僕は怯えた。闇の向こうには果てがなく、色々な化物がうろついている光景が脳裏に浮かび、「ナンド」という空間に入れられたらもう帰ってこられないかもしれないと思い込んでいた。

幻想的な話で言えば、サンタクロースもそうだ。物心ついたときには、僕の世界にサンタクロースというちょっと変わった存在がいた。クリスマスイブの夜に眠り、目が覚めたら枕元に欲しかったものが置いてある。幼い頃の僕は、眠っているあいだの空白の時間にサンタさんが訪れて贈り物を届けてくれたということを、驚きや嬉しさとともに、そういうこともあるんだとすんなり受け入れていた。

また、小学校低学年の頃だったか、母親の車の後部座席に乗っていたときのこと。車が赤信号で停まっていると、母親が突然、ふっ、と信号機に向かって息を吹きかけた。その瞬間、目の前の信号の色が赤から青に変わった。僕はびっくりして座席の真ん中から顔を出し、母親の横顔をじっと見た。母親は、なんでもないような涼しい表情で運転している。幼いなりにささやかな論理的思考力を振り絞って理由を模索してみたものの、結局答えは見つからず、「おとなってすごいな」と思った。なんだかわからないけどそういうものなんだな、となにかを信じきっていた。

そう。かつて僕は、納戸の奥に深い闇が広がり、冬の夜空をサンタとトナカイが駆け巡り、母がときに魔法を使う世界を、確かに生きていたのだ。

しかし、まもなく僕は知ることになる。

電気をつけると納戸は衣類がしまわれているだけの部屋であったこと。寝ぼけ眼で見た、プレゼントを置いていった父の後ろ姿のこと。そして、ただ別の方向の信号が赤になったタイミングを見計らって母が息を吹きかけたに過ぎなかったということを。

仕組みを知った僕の目には、もう二度と魔法は見えなくなってしまった。

大人になるということは、物事を知っていったり疑うことが増えていくということでもある。中学のときの理科の先生が、疑問を持つことが大事なんだとよく言っていた。その通りだと思う。なんでだろうな、それはほんとうかな、と立ち止まったり熟慮したりするということも生きていく上で必要になる。

でも、一方で、あの頃の不思議さや神秘さをそのまま受け入れるような、あえて論理的な思考を眠らせておくような、そんな感性も失ってはいけないものではないかとも思う。

高橋元吉という詩人の言葉に、「咲いたら花だった 吹いたら風だった それでいいではないか」という一節がある。色々なことがあってそうなるものに、むりやりあれこれ言わずとも、咲いたら花だった、吹いたら風だった、というのでいい。肩の力を抜いて、そういうものだと、すっと受け入れてみるしなやかな感性があっていいのではないか。その柔らかさは、なにも幼いもの、劣るものではないと僕は思う。

それは子供の頃にあった、不思議な、あの奥行きのある世界とも通じているような気がするのだ。

©︎ Nagase